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太平洋戦争で不沈艦と言われ、唯一生き残った戦艦「長門」。大正9年11月に竣工しましたが、「長門」は戦後、どこで、どういう形で沈んだか教えて貰えませんか。

  • 質問者:悩み中
  • 質問日時:2008-10-02 00:04:50
  • 1

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1946年7月25日の第二実験(BAKER、水中爆発)で、長門は爆心地から900-1000mの
位置にあり、右舷側に約5度の傾斜を生じました。
それでも長門は海上に浮かんでいましたが、4日後の7月29日の朝、原爆実験の関係
者が長門のいた海面を見てみると、既に長門の姿は海上にはなかったようです。
7月28日深夜から29日未明にかけての夜間に、艦内への浸水によって誰にも見取られ
る事なく静かに転覆し沈没したものと見られています。

Wikipediaより

  • 回答者:匿名希望 (質問から7分後)
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参考になり、満足しました。回答ありがとうございました。
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回答有難う御座いました。ほぼ合っていますが、原爆実験でなく、水爆実験だったと思うのですが、一点減点させて頂きます。有難う御座いました。

艦内への浸水によって誰にも見取られる事なく静かに転覆し沈没したものと見られる。と資料に書かれています。

  • 回答者:Sooda! ちゃん (質問から6分後)
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参考になりました。回答ありがとうございました。
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回答有難う御座いました。アメリカの水爆実験の的にされたはずですが一寸内容が良く判らないので二点減点させて頂きました。有難う御座いました。

原爆実験のモルモットとして扱われ、ビキニ環礁に沈む

  • 回答者:respondent (質問から5分後)
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参考になり、満足しました。回答ありがとうございました。
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回答有難う御座いました。確か、原爆実験でなくアメリカの水爆実験だったと思います。一点減点させて頂きました。有難う御座いました。

Wikipediaによくまとまってますので、引用します。

終戦後~戦艦長門の最期
日本軍の降伏後、1945年8月30日にアメリカ軍に接収される。1946年3月18日にクロスロード作戦(米軍の核実験)に標的艦として参加するためマーシャル諸島のビキニ環礁へ移動する。艦長はW・J・ホイップル大佐。180名のアメリカ海軍兵が乗り込んだ。すでに長門は外洋への航海がままならない状態であり、あまりの低速のため、移動の途中、小修理のためエニウェトク環礁に立ち寄っている。
1946年7月1日の第一実験(ABLE、空中爆発/予定爆心地を大きくはずしてしまう)では戦艦ネバダが中心に配置され、長門は爆心予定地から400mのところに置かれた。爆弾は西方600mにずれてしまい、結果爆心地から約1.5km(1,640ヤード)の位置となった。この時長門はほとんど無傷(爆心地方向の装甲表面が融解したのみで航行に問題なし)であった。長門と同時に実験標的にされた酒匂は翌日に沈没した。
7月25日の第二実験(BAKER、水中爆発)では爆心地から900-1000mの位置にあり、右舷側に約5度の傾斜を生じた。それでも長門は海上に浮かんでいた。しかし、4日後の7月29日の朝、原爆実験の関係者が長門のいた海面を見てみると、既に長門の姿は海上にはなかった。7月28日深夜から29日未明にかけての夜間に、艦内への浸水によって誰にも見取られる事なく静かに転覆し沈没したものと見られる。

  • 回答者:Sooda! ちゃん (質問から4分後)
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。
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回答有難う御座いました。良く判りました。感謝します。

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